About UsEssayGlossaryRecitalDiaryLinksKioskQ & ABibliographyMailHome
Page No.21
◆ サント・クロワ村の歴史 # 1( Sainte-Croix ) ◆
Essay021 掲載 2006/5/11

シリンダー・オルゴール生産においてジュネーブと並んで重要な地位を占めていたスイスのジュラ山脈の麓にあったサント・クロワ村の歴史を眺めて見ましょう。このEssay #1と#2ではサント・クロワ村で楽器として作られていた大型オルゴールについて述べていきます。次のEssay #3では雑貨(ノヴェルティー・グッズ)として作られた小型のシリンダー・オルゴール(メーカーはラドール、リュージュ社トーレンス社など)について述べます。

スイス連邦( Swiss Confederation または Helvetia )の国としての歴史は1291年8月1日の盟約者同盟に始まります。周辺の強大な国(フランス、オーストリア・ハンガリー帝国、イタリア)に挟まれながらも険しい山国という地政と勇敢な国民性を生かして武装中立という外交政策で独立を保ってきました。15〜16世紀初頭にかけてスイスは国土の貧しさと人口過剰、牧畜業の発展による耕地の減少で、深刻な穀物不足に悩んでいました。これは輸入に頼るしかなく穀物輸入の資金を得る為、ヨーロッパ最強の軍人と恐れられた傭兵の輸出が盛んになりました。しかし傭兵供給はスイス各地方が独自にその利害に最も適った相手国に対して行っていた為、スイス人同士が外国のために戦場で敵として相戦うことがしばしばありました。

フランスでカルヴァン派のプロテスタント(ユグノー Huguenots と呼ばれていました)の活動を容認していたナントの勅令が1685年に廃止となり、多くのプロテスタントが迫害を受けてフランスから周辺の国々(ドイツ、オランダ、イギリスなど)に逃れました。ユグノーは先進的な知識や技術(絹織物、染色技術、印刷術、時計製造)を持つ優秀な人達だったので周辺の国々の産業発展に大きく寄与しました。貧しかった山国スイスに優れた時計製造の技術が移転され、豊かになるきっかけとなったのはこの時期です。

1798年ナポレオンはスイスに侵略を開始しました。スイスは戦場になり国土の荒廃・凶作・物価騰貴、そしてスイス内部に激しい対立が引き起こされました。1803年ナポレオンはこれを調停して19カントン( Canton 自治州)から成る連邦国家体制が形成されました。サント・クロワ村が所属するカントン・ヴォー( Vaud )がスイス連邦に加盟したのはこの時期です。スイスはナポレオンの衛星国家となり1806年に大陸封鎖令(イギリス商品をヨーロッパ大陸から締め出すために公布された)が課せられ、イギリス植民地から原材料などの輸入、極東地域への製品輸出ができなくなり大量の失業者が出ました。

1815年、ウィーン会議で「スイスの永世中立とスイス領土の不可侵性の承認と保証に関する文書」がオーストリア、フランス、イギリス、プロイセン、ロシアに署名されたことによって、スイスの永世中立が国際法上初めて承認されました。これはスイスがヨーロッパの中心に位置し軍事戦略上の重要な拠点であったこと、周辺国にとってきわめて勇敢なスイス兵を味方に迎えられないのならば少なくとも手強い敵になってほしくないという思惑で、中立を認める事によって列強間の争いの対象外にするためでした。スイスの傭兵制度は産業革命によって貧しさから脱却すると、1859年ようやく終止符が打たれました。
The Music Box Makers
左の本はサント・クロワ村におけるオルゴール生産の歴史を詳述したものです。そのうち約1/2は大型のオルゴール、1/2は近代と現代の小型オルゴールについて書かれています。この本は珍しくまだ入手可能です、お問い合わせください。
Jean-Claude Piguet 氏著(原典はフランス語) MBSIによる英語版刊行「The Music Box Makers」(このサイトの書籍目録57)


スイス全体の広さは九州とほぼ同じ(約41,000㎢)で、現在の人口は約739万人です。カントン・ヴォー(現在の人口は50万人程度)と周辺ではフランス語の方言が話され(フランス語人口はスイス全体の19%)、宗教はプロテスタント(スイス全体の35%)です。
サント・クロワ村がどこにあるかを地図で示しましょう。サント・クロワ村はスイスの西端のカントン・ヴォー、フランス国境に近い青い矢印のところにあります。ジュラ山脈の麓(標高が1000m)に位置し、冬の気候が厳しく(緯度では北海道の稚内に相当)土地も主として氷河堆積物からなるので痩せており農業には適地とは言えません。サント・クロワ村は現在の人口4,500人程度の小さな村です。地図に記入された地名はオルゴール産業に深い関わりがあるところを示しています。
スイス西部の地図
1850年ごろのサント・クロワ村 左の絵は1850年ごろのサント・クロワ村です。
出典 古い絵葉書の複製。

右上は現在のサント・クロワ村、右下は軽便鉄道の終点サント・クロワ駅です。
この写真はMBSI日本支部の村田さんの好意で提供されたものです。


ごく初期のオルゴール。
ごく初期(1800年ごろ)のオルゴール(バリレットサー・プラトウ)に関する発明はジュネーブで考案されました。ヌーシャテルの出身でジュネーブの住民アントワーヌ・ファーベル( Antooine Favre )がハンマーで鐘を打つ代わりに振動する金属の板(櫛歯)を発明し1796年に特許を申請しています。オルゴールはジュネーブという交易に適した時計産業の盛んな土地で優れた職人たち( Nicole、Lecoultre、Piguet, Meylan )によって発展していきました。1802年に初めてのオルゴール工場がIsaac-Daniel Piguetによってジュネーブに設立されました。1814年にフランソワ・ルクルトが1枚の鋼の板から切り出したワンピース・コームを考案しました。ルクルト兄弟はそのころからシリンダー・オルゴールの半製品(ブランク)を作るようになりました。

1800年ごろヨーロッパは戦争に次ぐ戦争で荒廃し、禁輸措置が取られてヨーロッパから極東地域への時計輸出は止まってしまい、ジュネーブやヌーシャテルの時計職人は深刻な失業問題に直面しました。多くの時計職人たちは都市からジュラ山脈の村へと移り住み、その結果時計やオルゴールの技術を山の村へ移転しました。それまではサント・クロワ村などには時計の部品を作る職人はいましたが、それをまとめて時計にすることができませんでした。

都市から移り住んだ時計職人はサント・クロワ村のような貧しい山村に、鋼材を精密加工して製品を作ろうとする意欲と音楽のセンスのある人たちを見つけました。1808年にはサント・クロワ村に時計工場を立ち上げるための委員会が設立されました。村民の出資を募り、サント・クロワ村とカントン・ヴォーの経済的支援で、よそから招いた技術者による時計製造の技術教育が始まりました。1812年サント・クロワ村で最初のカーテル・ボックス(大型オルゴール)が作られカントン・ヴォーのお歴々に披露されました。1815年ごろにジュネーブから帰ってきたサミュエル・ジュノーは小型のオルゴールに関する技術をサント・クロワ村に紹介しました。彼は時計の代わりにオルゴールに芸術性と将来性を見つけました。1815年にヨーロッパの戦争は終わりマーケットが再開されると人々はまた多くの消費財を買うようになりました。このときにオルゴールは時計の付属品という立場からから離れて、やっと一つの独立したジャンルの製品という立場を獲得しました。1816年ごろのサント・クロワ村の最大の産業は女性の手になる手編みレースでした。1816年から1817年にかけて高地のサント・クロワ村に最後の飢饉が起こりました。このときのサント・クロワ村の人口は2600名ぐらいでした。

スイスのジュネーブとサント・クロワ村では次々とオルゴールに関する発明や改良が行われ、オルゴールはスイスの重要な輸出産業となりました。
1814年 フランソワ・ルクルトが1枚の鋼の板から切り出したワンピース・コームを考案しました。
1815年 ジュネーブにおいて優れたオルゴールを作ったニコル・フレール社の創業。
1825年 ジュネーブでシリンダーの中に充填するセメントが発明され、音質が改良されました。
1833年 ジュネーブで従来とは異なる大型のオルゴール(カーテル・ボックス)が作られました。
1840年 ニコル・フレール社によるピアノ・フォルテの発明。
1850年 ボワ・セレステリチェンジ・ボックスが作られました。
1850〜1875年 もっとも優れたシリンダー・オルゴールが作られた時代です。
1860年頃 キーワインドからレバー・ワインドへ移行。
1870年 パイラードはリボルバー・ボックスを作りました。
1874年 パイラードはサブライム・ハーモニーの特許を取りました。
1878年 パイラードはインターチェンジアブル・シリンダー・オルゴールの特許を取りました。
1879年 チター・アタッチメントが発明されました。
1882年 プレロディアニクの特許が成立しました。
1878年 Conchonがヘリコイダルの特許をとりました。
1885年 メルモード社がParachuteと呼ばれるランを防ぐための安全装置(セーフティ・チェック)を開発しました。

| 前のページ  | 目次  | このページ先頭  | 次のページ |

著作権保有 © All Rights Reserved 2005 あとりえ・こでまり