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Page No.22
◆ サント・クロワ村の歴史 # 2( Sainte-Croix ) ◆
Essay022 掲載 2006/5/12

山村であるサント・クロワ村でもオルゴール産業を育成するために、いろいろな政策が実施されました。
1833年 スイスのローザンヌで工業博覧会が開催され、サント・クロワ村からも出品されました。
1845年ごろのサント・クロワ村の資料によれば、村は繁栄しており古い建物は無くなり貧困は姿を消したとあります。
1854年にはサント・クロワ村商工会議所が設立され、政治的な力を増強していきました。商工会議所はイベルドンとの間の通信や交通の改善に尽力しました。サント・クロワ村の人口は約3700名に増加していました。
1860年オルゴール産業の労働者を対象として協同組合や共同パン焼窯ができました。1860年のサント・クロワ村の人口は4360名でした。このころのサント・クロワ村のオルゴール生産統計によれば2/3がスナッフ・ボックス、1/3がカーテル・ボックス(大型オルゴール)でした。
1860年代にドイツで小型オルゴールを組み込んだフォト・アルバム(1851年湿板法による写真の改良がありました)が売り出され爆発的なブームとなり、ベルリンだけで15万台の需要がありました。そのほかにも各種のノベルティー・グッズ(ビヤマグ、裁縫箱、デカンターなど)が作られ、大型オルゴールが作られなくなった後でも現代まで続く小型オルゴールという分野が形成されました。
1862年にフランスで著作権に関する訴訟が提起されました。それまではオルゴール製造業者には著作権という概念が無かったようです。
1875年には特殊なケースと大型のスプリングモーター以外のすべての部品がサント・クロワ村で作られるようになりました。このころサント・クロワ村のレース産業が消滅しました。
1876年にはサント・クロワ村の時計産業も消滅し、オルゴール産業に取って代わられました。
1885年にシリンダー・オルゴールのライバルとなるディスク・オルゴールの特許がドイツで成立。
1889年のサント・クロワ村の人口は6029名でした。
1893年にはサント・クロワ村まで蒸気機関車による軽便鉄道が開通しました。
1895年には蒸気機関による電力供給が始まりました。この年にイベルドンで博覧会が開かれました。パイラードは小さなマニベルから大型のインターチェンジアブル・シリンダー・オルゴールまで出品しました。
1896年にシリンダー・オルゴールの生産がピークに達しました。サント・クロワ村の人口は6000人を超え大型シリンダー・オルゴールの時代のピークでした。このころからディスク・オルゴールの発達に伴いシリンダー・オルゴールの市場は小さくなっていき、サント・クロワ村の人口も一旦漸減しました。サント・クロワ村のオルゴール・メーカーはその知識や経験を生かしてディスク・オルゴールの分野に乗り出していきました。ドイツのディスク・オルゴール・メーカーへ櫛歯を納入する工場もありました。またプロジェクションの無いディスクを使用する、より優れたディスク・オルゴールを開発した会社もありました。
1896年にスイス製で初めてのディスク・オルゴールが出荷され、パイラードの工房では最初の蓄音機の図面が書かれ始めました。

サント・クロワ村ではオルゴールは工房から各家庭に下請けに出されていました、作業の光景は前のEssayに掲載されている本の表紙をご覧ください。女性はシリンダーピンの罫書(ケガキ、印を付けること、マーキング)、穴あけ(ドリリング)、打ち込み(ピンニング)、整形、修正に従事していました。櫛歯の調律などは主に男性の仕事(半農半工)でした。最終の組み立て、チューンシートの貼り付け、出荷などは元請の工房(comptoir)で行われました。各家庭の作業台は居間の窓に面したところに置かれていました。必要な工具は自前で、自家製もしくは近所の鍛冶屋さんから買っていました。

オルゴールを作る上できわめて重要な音楽家の仕事は編曲です。編曲家の名前はあまり後世に残されませんでしたが、サント・クロワ村で特筆すべきは1875年〜1895年にかけて活躍した次の3名です。
A. Bruschi (イタリア人)とHenri Giroudはサント・クロワ村に住み音楽教育やコンサートのプロモーションにも尽力しました。
Octave Chailletは後にドイツ最大のディスク・オルゴール・メーカーであるポリフォン社で編曲に従事し、同社の社長であるグスタフ・ブラッフハウゼンがアメリカでレジーナ社を創立したときにアメリカに移住しそこで編曲者として活躍しました。
当時サント・クロワ村で作られていた大型のシリンダー・オルゴールの例です
当時サント・クロワ村で作られていた大型のシリンダー・オルゴールの例です。
当時サント・クロワ村でつくらていたディスク・オルゴールのカタログです。左からプロジェクションの無いディスクを初めて開発したハルモニア、次がメルモード・フレール社で作られていたステラ、右が同じ会社で作られていたミラ(又はマイラ)です。Jacot Muisc Box Co.はアメリカにおけるメルモード社の代理店です。 当時サント・クロワ村でつくらていたディスク・オルゴールのカタログです
インターチェンジアブル・シリンダー・オルゴールとグランド・ミラ 左は豪華版のインターチェンジアブル・シリンダー・オルゴールの例、右はメルモード・フレール社が作っていたミラの中でも最も優れたコンソール型ディスク・オルゴールであるグランド・ミラです。
サント・クロワ村におけるオルゴール工房は規模が小さく、経営者同士が姻戚関係にあるものが多いので歴史は相互に入り組んでいてきわめて複雑です。ジュネーブにおけるニコル・フレール社のようにチューン・シートに工房の名前を記入する習慣がありませんでした。チューン・シートも不足すれば近所の工房同士で融通しあっていたようです。そのようなわけでアンティークのスイス製シリンダー・オルゴールのメーカーを同定するのは困難な作業です。サント・クロワ村における大型のシリンダー・オルゴールとディスク・オルゴールの主要なメーカーは下記のとおりです。
★Barnet H. Abrahams (通称BHA.) 1895年イギリス人によって創業 
あまり高価ではない大型のシリンダー・オルゴールも作りましたが、後にブリタニア( Britania )というブランドで小型のアップライト型ディスク・オルゴールを生産しました。ディスク・オルゴールが成功すると急にここのシリンダー・オルゴールの品質が低下していきました。
1825年創業 Bornand Freres
★Cuendet & Co.が個人事業として1814年ごろ創業
Cuendet一族は多くの個人工房を開設し、他の工房との共同事業も行いました。1917年までは大きなものから小さなものまで生産していましたが、1917年以降は小型のものに特化していき、1972年にリュージュに事業を譲渡するまで続きました。
★Harmonia SA 1896年に生産を開始しました。
Andre Junodが1895年に取得したプロジェクションの無いディスクを使用するディスク・オルゴールを生産しました。
★Alfred Junod 1884年創業
Junodは変わった機構を持つオルゴールを次々と考案しました。デュプレックス・シリンダー(パラレル・デュプレックス、インライン・デュプレックス)、アレクサンドラと呼ばれたシリンダー表面の薄い円筒を交換するタイプのインターチェンジアブル・シリンダー・オルゴール、シリンダーを螺旋状に送り込んで長時間の演奏を可能にしたヘリコイダルなどです。
★Auguste Lassueur 1880年創業
人形などの動きを伴ったステーション・ボックスを作りました。
Mermod Freres 1816年創業
創業当初はオルゴールと手編みレースの輸出代理店のような経営でした。後に小型の雑貨的なオルゴールから極めて大型の優れたシリンダー・オルゴールまで製造しました。社内に研究開発を専門とする部署を初めて設けました。優れた経営者と後継者に恵まれ大きな会社に成長しました、そして経営資源をハイエンドのオルゴールに集中し、サント・クロワ村で最初に安物の生産を打ち切った会社でした。
ドイツにおけるディスク・オルゴールの発展により、メルモード社もその開発に乗り出しステラと呼ばれるすばらしい音質を誇る製品を作り1893年にシカゴで発表して好評を得ました。メルモード社は3つのブランドでディスク・オルゴールを生産しました。ステラはプロジェクションの無いディスク、マイラ(ミラ)はおろし金(チーズ・グレイター)のようなとがったプロジェクション、エンプレスは通常のプロジェクションを持ったディスクを使用していました。メルモード社は輸送に適したコンパクトな設計のムーブメントだけを輸出し、相手国で代理店が国情に合ったデザインのケースに収めて販売していました。
★Paillard 1814年創業しオルゴールの生産は1920年に終了しましたが、その後もタイプライター(Hermes)、シネカメラ(Bolex)の企業として繁栄を続けました。
パイラード社も他のメーカーと同じく小さなものから大型のオルゴールまでフルライン体制をとっていました。パイラード一族はオルゴールの改良に大きな功績がありました。1850年にインターチェンジアブル・シリンダー・オルゴールの原型の開発に成功、1874年にサブライム・ハーモニー、1878年のチター・アタッチメントなどです。ブランク(シリンダーのピン打ちと櫛歯の調律がされていない状態)と呼ばれる半製品も数多く生産しています。
パイラード社は時計の製造から出発し、オルゴール、タイプライター、シネカメラ、コンピュータ関連機器と時代の要請にあった事業展開を行ったために今まで生き残ることができました。

サント・クロワ村においてもディスク・オルゴールと蓄音機の攻勢、第1次世界大戦による混乱のために大型のシリンダー・オルゴールは作られなくなりました。雑貨としての小型シリンダー・オルゴールだけが生き残りましたが、これについては次のEssay #3で述べます。

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