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Page No.17
◆ グスタフ・ブラッフハウゼン ( Gustave Brachhausen ) ◆
Essay017 掲載 2005/12/2
ドイツ人とイギリス人エリス・パールによりが発明され、1885年にがライプチッヒ市( Leipzig )郊外のゴーリス( Gohlis )で設立されました。そこに25歳のグスタフ・ブラッフハウゼンという技術者が雇われていました。彼は発明の才に富み2〜3年のうちに職長( first foreman )の地位にまで昇りました。グスタフ・ブラッフハウゼンとパウル・リスナー( Paul Riessner )は共にシンフォニオン社のオルゴールについてたくさんの改良を提案しましたが受け入れられることはありませんでした。これはパウル・ロホマンの性格に問題があったようです。
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グスタフ・ブラッフハウゼンの若いころの写真です。
1889年にグスタフ・ブラッフハウゼンはパウル・リスナーを伴ってシンフォニオン社を退社し、新たにディスク・オルゴールを生産するをライプチッヒ市郊外のワーレン( Wahren )に設立しました。ポリフォン社はシンフォニオン社をしのぐ勢いで拡大してゆきました。
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グスタフ・ブラッフハウゼンは新しい有望な市場をアメリカに見つけましたが、当時のアメリカにはドイツ製品に対する高い関税障壁がありました。そこで彼はアメリカに行って現地生産をする決心を固めました。ドイツのポリフォン社とはいろいろな経緯があったようですが、結局グスタフ・ブラッフハウゼンはポリフォン社にパウル・リスナーを残して3人の機械工と2人のキャビネット・メーカー(ケースの職人)を伴ってアメリカに行きました。彼が35歳の時、1892年9月15日に出発し2度とヨーロッパには戻りませんでした。その後ポリフォン社とは長く友好的な関係を持てたようです。
グスタフ・ブラッフハウゼンがアメリカに到着して最初の1年間はジャージーシティ( Jersey City )での設立や登記、アメリカにおける特許の登録などの準備作業に費やされました。特許はドイツに残してきたパウル・リスナーとの共同出願の形を取っていました。その後ニュージャージー州ラーウェイ( Rahway, New Jersey )に移転して大きな工場を取得しました。1894年3月27日にレジーナ社は75,000ドルの資本金で正式に発足しました。1894年10月5日に最初のディスク・オルゴールが販売されました。そのは4001で最初のうちはドイツから丸ごと輸入したものを販売し、徐々にアメリカにおける生産割合を高めていきました。
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レジーナ社はすぐにアメリカに受け入れられビジネスの規模は拡大に次ぐ拡大となりました。早急に多くの技術者を必要としたのでヨーロッパから多く(60人以上)のスペシャリスト達を迎え入れました。その中で特に重要なのはシンフォニオン社からスカウトしたスイス人オクターヴ・フェリシァン・シャイエ( Octave Felician Chaillet )です。彼は音楽家、音楽教育家であると同時に、スイスのサントクロワ村ではシリンダー・オルゴールのに活躍し、シンフォニオン社ではディスク・オルゴールのための編曲を手掛けていました。彼の娘はグスタフ・ブラッフハウゼンの配偶者となりました。
1896年にグスタフ・ブラッフハウゼンは営業用のオルゴールとしてを発明して特許登録を行いました。レジーナ社の社員がオルゴールを設置してあるホテルやパブなどを定期的に巡回してに貯まったコインの集金、新しいへの交換、機械の点検などを行うシステムが確立されました。これは現代のジュークボックスのさきがけとなるビジネスでした。
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1900年ごろにエルドリッジ・ジョンソン( Eldridge R Johnson )という人物が彼の発明品をデモするために訪れました。それはエジソンの発明したシリンダー型のの不便な部分をなくす重要な発明で円盤型のレコードを使うものでした。ただそのときの音は大変ひどいものであったらしく、グスタフ・ブラッフハウゼンは彼を相手にしなかったようです。エルドリッジ・ジョンソンはその後に自分の発明を生かしてビクター・トーキング・マシン社の設立に関わりました。グスタフ・ブラッフハウゼンは巨大な音楽産業に乗り出す大きなチャンスを逃し、音楽産業としてのレジーナ社の生命を絶つ結果を導くこととなりました。
人の歌声が聞こえてくる蓄音機に押されて、レジーナ社は新しい分野に進出しました、それは真空掃除機でした。1903年はレジーナ社にとってもグスタフ・ブラッフハウゼンにとっても良くない年でした。会社は銀行の管理下に置かれグスタフ・ブラッフハウゼンは工場の管理者( factory manager )に降格されました。この前後に、、などいろいろな商品を開発しましたが、音楽に関係する事業の業績は回復しないまま悪くなっていきました。1905年には後発メーカーとしてシリンダー型蓄音機やオルゴールと蓄音機を一体にした、チャイムの付いた大型時計などにも進出しました。
この後もグスタフ・ブラッフハウゼンは波乱の多い人生を送りました。第1次世界大戦の終了と共にドイツにあった彼の財産は消滅しました。そして彼の結婚は離婚によって終わりを告げました。1919年に彼は一介の工具職人または金型職人として働いておりました。最後のディスク・オルゴールがレジーナ社から出荷されたのは1921年です、これは同時にディスク・オルゴールの歴史の終わりを告げるものです。
1924年には新しい経営陣が破産したレジーナ社にやってきて改革を始めました。レジーナ社は電気掃除機、フロア・ポリッシャーに活路を見出しビジネスは成功を収めるようになりました。第2次世界大戦中は爆弾の信管を製造して表彰されています。1957年にレジーナ社は新しい大きな工場に移転し、電気掃除機、フロア・ポリッシャーの生産を続けましたがその後に倒産しています。
グスタフ・ブラッフハウゼンは工員の地位を失い、退職するまでの残りの時間を夜警としてレジーナ社に奉職していました。彼が亡くなったのは1943年の10月2日で享年86歳でした。ドイツとアメリカにおいて重要なディスク・オルゴール・メーカーを2社も大きく育て上げ、重要な特許を持ち、キーパーソンと称された人、今の私たちにディスク・オルゴールを通して素晴らしい音楽で語りかけてくれる人は、孤独で寂しい最後を迎えねばならなかったようです。
しかしアメリカやドイツから遠く離れた極東の国「日本」で、彼が関わったオルゴールを100年後の21世紀に評価する人がたくさん出てくるのを見れば、きっと彼はあの世から「ど〜や、すばらしいやろう。」と語りかけてくるのではないでしょうか? 素晴らしい音楽を世に広めたいという彼の希望は叶えられたのでしょうから。
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